昭和44年02月18日 朝のご理解



 御理解 第97節
 『神を拝む者は、拍手して神前に向かうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。』

 これは神を拝む者はと、拍手して神前に向うてからはと、これは御祈念をする姿勢というでしょうかね、もちろんこれを頂いております、御祈念しながら居眠りなんかていうのはできませんですね。御祈念をしながらちゃんと眠ってしまっておる。これじゃ、例えば物声は聞こえないはずです。ね、そういう意味で物声が聞こえないというのではなくて、ね、槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならんとこう、ね。
 ですからいかに神様へ向こうてからは真剣、そのものでなからなければならんかという事がを言うておられます。ね。後ろへ振り向く事はならんて物音や物声を聞く様では神に一心は届かんと。神様にこの一心を聞き届けて貰いたいという一心を聞き届けて貰いならば、そしても一生懸命ならなければならないという事。物音や物声を聞く様ではという事は、うん例えば様々に一生懸命信心を致しておりますと、様々に取沙汰をしたり様々な事を言うたりする、又はいろんな傷害を受けたりする様な事があります。
 そういう例えば人達の言う事をに、ね、ぐずぐずする様な事であってはならんと。まそういう一生けそういう意味の事であろうとも思いますね。ですからとにかく一生懸命なからなければならんという事、ね。勿論迷うたり信心がグズグズしたりしてはなりません。所がどうでしょうか例えば私は御祈念の姿んでも、御祈念をしながら一心にお縋りしておる様であっても、ね、その一心の姿が現れてない自分というものを見た時に、これはひと工夫しなければいけないという事を思わにゃいけません。ね。
 慣れっこんなってしもうた、もう眠ってばぁっかり御祈念しておる。御祈念しておるのじゃない、まるっきり、御神前は眠り場のように思うておる。ね、これでは、もう全然駄目です。ね。だから工夫が必要なんですよ、やはり。ね、疲れておる時などは、やはり、やはり肉体を持っておりますし、限界もございますから、だから工夫しなければいけません。いったん神様に向かうという時には、工夫しなければいけません。
 それで私は例えば御祈念をする時なんかねぇ、自分の頭を抱え込むような御祈念をしたらもう必ず眠くなくても眠るて。ね、だから私は必ずこう両手をこう合掌したら、頭を下げたらこの手に頭をさわらない所にいつも頭を置いとく。これに頭がちゃんのっかってしまったら必ず眠る。ね、段々おかげを頂いて、ね、神様と交流しておる神様とお話し合いが出来る位な信心が出来る様になりゃもうそんな事ない。
 けれども自分の一心に願っておる事が聞いて貰っておるやら、貰わんやら解らん様な時代の信心の時には、そこんところを工夫しなければ駄目。夕べは眠っとらんというなら尚更そこに工夫が必要である。(?)に工夫しなければなりません。2代金光様はたこの自分のひざにきりを立てておられたという。自分の髪の毛を抜いておられてと言う様な事が語りぐさになっております。と言うぐらいに厳しく信心に報われてからの大道を、残しておって下さります訳ですね。
 楽々としたことではいけません。ね、楽々と御祈念さして頂いても、ね、神様とこう、ほんとにお話し合いをしておるようなことでしたら、眠るようなこともありませんが、ここんところを、と同時に、なこれを、私ども神様に一心に向っておる、神様に一心におすがりをしておるというものの生活態度といったようなものでもそうである。人がちょっと、とやこう言うたら、もうそれでグラッとくる。それで迷う。
 何か事情があると、もうそれを言い訳にして不信心になる。言い訳にする。もうそれこそ物事や物音を聞くようではと仰るのにね。もうちょっとしたことがあると、そのためにご無礼しました、ね。その為にお参りをできませんでした。修行はを辞めましたと言った様な事ではいけんという事です。ね。今朝から私あのう御神前でおにぎりを沢山頂くんですねおにぎりご飯を。
 それもとにかくとんもにじゅうじゃない、も沢山のおにぎりを頂く。次には私が今頂きいておるご飯小さいこんなご飯ですが、私はご承知のように二食ですから二食それを今は、二杯ずつ頂きます。それにこう私がいつも頂いておるように、お茶碗についであるところを頂く。どういう事か分からなかった、御祈念さして頂いて御祈念終わっても、それがどういう事かは意味がわからなかった。
 今この97節ただ今頂いてみてから、ははぁこんな事だったばいなと思うのです。ね、ですからね例えて言うならばね、今合楽でどの様な難儀を持っておっても、そのうんその信者が氏子が一生懸命なら、絶対おかげになるという事です。今の合楽所謂おにぎりご飯です。ね、おにぎりご飯て言いなばら絶対ままになる、おかげになるという事です。これを与えられるというのです。
 一生懸命言うなら山登りの時などに、例えばおにぎりというのは使うもんですね。だから信心は山登りとおんなし事だと言う様な気持ちで、一生懸命油断なく信心を一生懸命しておる者の上には、もう絶対おかげになる。ままになるおかげだとこういう事なんです。ね、これはですねこれはもうどういう問題っちゅうよりも、どういう難儀な場合でも、合楽に足を向けて、ね、こちらの方へ足を向けてくる人。
 お縋りしますと言うて来る人。迷わず一心にすがって来る人勿論ね。合楽の金光様と言って一心にすがってくるならばです、今の合楽ならどげなんおかげでも頂かれるという事です絶対ね、これはもう絶対。但しそれはおにぎりの程度のものである。けどもうお腹がすいとる時にはおにぎりでも美味しいね、けれどもです今日の御理解頂いておりますね、物音を聞く様であったりね、人の話が聞こえる様であったり、ね。
 ちょっと矢の先が突かれりゃ、もう後ろを振り向く様な事であっては、おかげを受けられないという事です。これは信心の御祈念の姿、御祈念の態度というだけじゃなくて、私共の言わば信心生活がです、ね、その位に例えば人が何と言おうが、どの様な事が起ろうが、これだけはやってやってやり抜くという信心さえ、今の合楽でしておるなら、もうどういう難儀な問題であってもおかげになるです。ね、
 私が今日、たくさんに頂いたおにぎり、これはもう用意してあるのですから、一生懸命にむ、向って来る者に対する、これはおかげなのです。さ、おにぎりはありますよ、おつゆもありますよ、お刺身もありますよ、と言うほどしのおかげじゃないけれども。まぁ言うならば、おにぎりだけでままになると言うかね、ままになる、そういう意味合い。例えば、山登りする時、おにぎりでも美味しい。
 そういう意味でのおかげなんです。私はそのてんおかげを頂きゃ頂ききった、と言うならあなたの一心がまだ足りん一心が足りんと言うと、是はもう限りがないですけれどもですね、いうならばちょっとした事を理由にして信心を疎かにしたり、所謂物声を聞いたり物音を聞く様であっては、まだこのおにぎりはやられんちゅう事になる。あそこにも迷うとる心にも迷うとる、とグズグズした様な信心ではいけないという事。
 私ここに絶対という言葉を使うからには、もう絶対なんです。それはもほんとにそれはそうです。もうそげな事の頂ける筈がないおかげをやっぱ頂いております。是はもう金銭の上であろうが、所謂経済の上であろうが、もうほんとに縺れに縺れた人間関係の問題であろうがです、一心に縋って来るならばおかげになるけども、誰かがこう言うたと言うちゃもう迷い。彼がこう聞いたからと言やぁもうそれで心が変わる。
 何か不意の事情があったと言やぁいやその事情の方を先にして、神様を後からにすると言う様な事ではね、是の絶対のおかげっていうものにはならんですね、ふんじゃそれが難しいかて言うたら絶対難しい事じゃないです。自分が本気でね、火の玉の様な修行態度とでも申しましょうか、本気で修行するぞという一心になったら、出来ん事ないです。死ぬか生きるかと言った様な場合でも、一心不乱ですいや乱れずにですね、
 合楽ていうて今向こうて来たら、もう絶対のおかげを受けられるです今の合楽では。用意がしてあるですここに。という事を今日は教えて頂いたと。うんなら私の茶碗にですね、是は特に小さい茶碗ですが小ちゃいお碗に2杯です。そんなら是は皆さん今申した事、皆さんの事ですがね、今度は私の事はもうおにぎりじゃない。ご飯に茶碗が注いであるところを見るとやっぱり是には、場合にはお刺身も付くだろうお吸い物も付くだろう。ね、と言う様なおかげを頂いておるけれどもですよ。
 けれども食べ放題と言う様な事は、絶対まだ許されないと言う事なんです。こういうおかげを頂きたいと言って頂きたいからと言うて、それを全部お前に今だやると、今の私はどうですかね言わば、私が言わば今つい一杯の腹いっぱい食べたいからって腹いっぱい食べよったら命取りです。そうでしょうがね、いうならばこの五体をもたさして頂くためには、丁度良いおかげを下さってあるのである。
 ここに今例えば百のおかげを頂いておるならばです、私が百五十の願いをしてもですよね、やりたいけれどもまぁだお前が百五十もやりよったら、その多すぎるおかげでかえっておかげを落とすようになる。とおぼし召しておるのが神様の思いではあろうと、私は思うのです。ですからならここで信者の皆さんのおかげよりも、少しは私がましなおかげを受けておる。ね、今日このようなおかげを受けておる。
 けれども私の願いというものは大きい。それこそ夢の様な願いを持っておる。けれども、そういう夢のようなおかげが、今実現したらですね、ね、私はかえっておかげを落とすんだということなんです。私ほんとにそう思うんです。2杯目、もう半分ばっかりでいいけん注いでくれんかと言いたい時があります。ここもふた二月あまりはもう絶対に、もう少しを言わないことに決めております。
 も注いでくれるだけ、二杯だけ頂くことにしておる。ね、もう少しくれんかと言うことは、私の命取りになることなんです、言うなら。ね、だから神様も、ほんな願うからやりたいけれども、それじゃお前の母体が持てない。ね、頂きたいならば、もっと素晴らしい健康のおかげをまず頂けよ、ということ。3杯4杯食べても、障らないだけのお前になれよと、お前が今願っておる夢のようなおかげでもです。
 そういうおかげを、今お前にやったらさぞ良かろうけれども、それは、ね、そのおかげで返っておかげを落とす様な事になってはならん。さ頂きたいならばもっともっと、ね、百しか頂けない者が百五十頂きたいんなら、百五十頂けるだけの信心を、進めていかなければならんぞと言うて下さっておるのが、現在の私の信心じゃなかろうかとこう思う。ね、そういうふうな分かるですか皆さん。ね、
 私でもと言うたらいかにもできたごたるばってん、なら私でもそのこと通りなんです。ね、今日私が私の茶碗にこう普通の茶碗にご飯を盛っておるの見せて下さった事は、そういうことだと私は思う。ね、ならここに沢山のおにぎりが用意してあると言う事はです、一心に向こうて来る氏子、それこそ一にも二にも三にも神様と頂かなければと、思い込んで参ってくる人。誰がなんと言うても迷わない人。こういう事情がありますけんちゅって言い訳す、しない様な信心。
 ならば、それは、例えどのような、死ぬか生きるかといったような、言わばギリギリのところ通っておるような、例えば、難、難儀であってもです、絶対のおかげだということです。ですからいうならば皆さんの場合、ま油断もすきもできないという信心な、ほんとの信心が頂きたいということになってくると。けどなら、油断もすきもないという、その一生懸命の信心というのはです、実際してみると、その気になってみると、そげん難しいこっじゃないということです。
 問題はそのやる気があるかないかという事なんです。私は今日はこの97節からね又私が、今日御祈念中に頂きました事と、それがどういう意味であるかという事を、を解らなかったけれどもこの97節を頂いてから、ははぁ是だなと言う風に分からせて貰った。そしてお話しながら私は絶対、絶対という言葉がならなんも使いよりますが、是はもう絶対です皆さんどういう難儀な問題でも、親先生とお縋りしてきてですね。
 一心不乱になったらもう絶対のおかげです迷わずに現在の合楽では。けれどもその為に今言う迷うたりぐずついたり、ね、回れ右をしたり言い訳をする様な信心では、但し神に一心は届きませんよね。神に一心は届かんとこう仰る。神に拝む者は拍手して信心に向こうてからは、例え槍先で突かれても、後ろへ振り向くことはならんぞと、物音や物声を聞くようでは神に一心は届かんと。是は私どもが神様に向う、
 所謂御祈念の姿や姿勢ではありますけれども、私どもがおかげを頂きたいと言って、神さまに向こうてくるそのまた姿勢でもあります。おかげを頂きたいと言うてお願いをし、お願いをしに参ってくる者の是は姿勢でもありますね、それはここん所の一心が出らなければならないと言う事で御座いますね、ふんなら是はあの私でもね、願い通りのおかげと、ね。それは百しか頂けないものですけど、百以下の事ので願いを受けております。皆さんのご承知の通りなんです。けれども私はそれでけして満足していない。
 それこそ皆さんが聞かれたらね、本当に誇大妄想教じゃなかじゃろうかっちゅうごたる事、大きな事を思いもする願いもしておる。けれどもそれは一歩一歩実現に近づいていくものであって、今私が夢の様な願いを持っておるから今神様が下さるわけにはいかんのだ。ね、下さる事が出来るならばそれは私の、むしろ命取りになるのだと言う様な所を通っておるのが私だとこう思うのですね。
 ですから大変頂きたいのですから、そこんところ一歩一歩いよいよ言わば健康の養生とでも申しましょうかね、いわゆる自分の信心の養生を、いよいよ大事にしておかげを受けていかなければならんというふうに思うのです。ほんとに皆さんもうぜおかげは絶対のもの。ね、だからその絶対のものが頂けるために、一つ神に一心は届かんと仰せられるその一心を神様に打ち向けて、ね、
 言うならばまぁ頑張らなくてはならんという時であり。山登りの信心であるといういことである。ね、ですから、それはおにぎり的なままになるおかげあっても、それはとてもとても美味しいものに違いはありません。ね、そういうおかげを頂いてじゃだんだん少しは楽な、いやもっとましなおかげになって来る、全ての事に信心にも進んでいかなければならん事は勿論ですね。
   どうぞ。